開発、環境、人権 ー 川村暁雄のインタビュー
神戸女学院大学教員、川村暁雄さん(1)のご専門は国際関係論。同時に、開発、環境、人権、教育といったテーマでもNGOなどの場で活躍中。なかでも、権利基盤アプローチについては多々で講演をなさっている。秋からタイへ行かれる前で非常にご多忙のところお時間をいただき、権利基盤アプローチ、人権などについてお話を伺った。
権利基盤アプローチによって何が変わったか
shk (以下S) 人権基盤アプローチ(あるいは権利基盤アプローチ、以下、RBA)(2)について、インドのナルマダ・ダム(3)を例にお聞きします。あれはうまくいった例だと思うのですが、それについてお話しいただけますか。
川村(以下K) そもそもナルマダダムの事例は、RBAという考え方で扱われたわけではないのですが、今から見ればそういう見方もできるのかもしれません。結果として、ある意味うまくいったし、ある意味うまくいかなかった。ナルマダ・ダムというダムをインド国内で、また、国際NGOが問題にすることによって世界銀行の行動を変えたという意味では非常にうまくいった。でも、ナルマダ・ダムの計画・工事自体は今も存在しています。
世界銀行というのはたまたま外からお金を持ってくるから影響を与えることができたという話で、インドが自分のお金でやるのであれば影響力は及ばないということになりますね。そういう意味では、最終的には国内で人権が確立していかないと問題は解決しません。
S ダム建設のようなプロジェクトにRBAを適用したことによって、参照すべき基準ができたということですね。
K そうですね。国際機関において基準ができてきたという意味では今で言うRBAの視点を実現したという側面もあります。
ただ、現在語られているRBAは、先住民族の権利のために戦っていた先住民族団体だとか世銀に働きかけてきたNGOではなく、それ以外の具体的な援助団体の行動をどんどん変えてきているところに意味があるのだと思います。
昔はそういうことをやっていなかったような団体が、先住民族の権利も重要だ、あるいは、裁判を使って人びとの権利、例えば学校に行く権利を保障していくということを昔以上に考えるようになってきた。そういう国際的な協力NGOの現地パートナーの選び方が変わってきたとか、そういうことに関心がなかった人たちを巻き込み始めているということです。国際協力NGOや国連などが、そういう運動に絡む可能性が出てきたと。
人権に基づく開発アプローチというのは非常に広い概念で、コミュニティのレベルでどういう影響を与えたのか、国の政策のレベルでどういう影響を与えたのか、国際的な関係にどういう影響を与えたのか、与えうるのか、分けて考えていかないと、本当にいろんな意味があるんですね。
コミュニティのレベルでも、例えば国際機関からお金をとってきて、識字教育を学校外でやる、保健医療のためのトレーニングをやるというNGOにとっては、RBAが入ることによって新しい視点が入ってくる。要するに、政府が本来やるべきことを自分たちが代わりにやっていいのか、というようなことを考え直す視点が入ってくるということですね。
RBAというのは権利という言葉を使うので、権利主体である住民が主人公だという視点をもたらします。住民が政府に対して要求する主体でもあるし、政府ができない部分を自分たちがやっていく主体でもあると位置づけて、では、今なぜそれができていないのか。できていないのであれば、一体どういうことをすればできるようになるのかということを考えて、やるべきことを見つけていくということなんですね。
教育だったら、例えば子どもが学校に行けない、じゃあ自分たちが代わりに学校に行けるようにしなきゃいけない。学校に行けるためには一体どうしたらよいか、そのためには政府も変わらなきゃいけないし、親も変わらなきゃいけない。
権利は社会全体で実現していかなくてはいけないという視点に立って、そのためには本来やるべき人は誰なんだ、その人たちがやっていないんだったら何でできていないのかということを考えていく。そういうことが今までと違う。これは地域レベルの話ですね。
これが国の政策のレベルで見るならば、もっと違ったいろんな問題が出てくる。例えば、予算配分はどこで出てくるんだと。教育予算は、本当にしんどい人たちのところにいっているのか。そのためのデータはちゃんとあるのかという話なる。RBAから考えなきゃいけないこととして出てくる。
予算配分はどうやって決めているのか、誰が決めているのか、どこまで透明なのかみたいな話も出てくる。そういう問題というのを、それまで政府の予算に働きかけるなんて考えたこともない国際開発協力NGOが考え始めるようになってきたということです。例えばグローバル・ウィットネス(4)という政府の汚職の問題をモニターしている国際NGOが、セーブ・ザ・チルドレン(5)と一緒になって、政府が資源を国際的に売っていくときに、その金の透明性をどこまで高めるのかということについての報告書(6)を協力して出している。昔だったらこれは考えられなかった。セーブ・ザ・チルドレンは子どものために現場で何かする、グローバル・ウィットネスは政府を批判する。ところがそういうのを同時にやらないとだめでしょ、ということになった。
現場の地域でプロジェクトを進めていた団体と、アドボカシーをしていた団体が、RBAという視点で見たときに、結局皆の目的は同じだ、人間の尊厳なんだ、そのためには誰が責任をとるのか、誰が権利を持つのかという枠組みで考えていけば、その大きな枠組みのなかでそれぞれの役割がちょっと違ってきたとか、近かったりするということが見えてきたりする。
実際にしんどい生活をしている人にとっては、あなたがしんどいのは権利が奪われているからだといわれたときに、すごくエンパワメントされる。その人たちにとってはすごく力づけられる経験で、そうか、自分たちが本来要求すればよかったんだと。
今までのNGOはどちらかと言えば、一般の人のことは考えてきたけれども、duty bearer(責務の担い手)をどう変えていくかということはあまり考えてこなかった。だから、RBAは、両方ちゃんとやらなくてはだめだよという視点を生み出していって、今までエンパワメントだけやってきたエンパワメント型の団体にもそれだけではないという視点を与えるようになったわけです。
考えさせない教育
K まさに日本の場合も社会のつながりを考えずにやってきたし、考えさせることを教育が怠ってきた。
S 教育が問題なのは確かですが、家庭の中でもできていません。
K それはできない。なぜかというと、私たちがそういう教育を受けていない。さらに言えば、教員だってそういう教育を受けていない。だから、権利とか法とか参加とか政治とかという言葉を、どこまで具体的に語れる人が教員の中にいるのかということから考えないといけない。そういう人たちは戦後の教育の中で生み出されてきた失敗の結果なんです。今の教育の失敗の犠牲となってきた人たちがまた教育を担うという悪循環を戦後ずっとしてきている。
一番の根源をたどっていけば、日本においてやってきた政治改革が弱い。全国津々浦々を見れば、そういうことをやってきた人たちはいるんだけれど、そういう人たちを歴史の主流として描けない。田中正三が主人公の歴史が語られない。明治時代に土佐の村で婦人参政権を実現した民権ばあさん(7)というのがいるんですけれど、そういう人たちのことを歴史の主人公にはできないんですね。教育基本法で語られている社会の形成者を育てるんだという理念がまったく現場では形成されていない。
本当に民主主義が問題になってくるのは、限られた予算を皆で分け合うときに問題になってくるんですが、税収が増えていた時代はお金を分けるときは声の大きな人に分配すればいいんですよ。それに限界が来ている。
その状況を変えるためには・・・
S 情報がある程度出てきたとしても、市民が声を挙げなくては変わりません。しかし、受け手の市民にそういう意識が育っていないと思います。マジョリティがそういう意識を持っていません。
K マジョリティが全員、行動し始めるということはありえない。日本ではそれはすごく重要で、問題はマジョリティではない。日本の問題は、マジョリティではなくて、マイノリティの少なさだと思う。社会に対して声を挙げていく人なんて常にマイノリティなのだが、それがあまりに少ない。マジョリティがそうなってないということにしちゃうと、永遠に社会は変わらない。自分たち気がついた人間が少しでも仲間を増やさなくてはならない。
S マイノリティの声を聞かない社会なんじゃないかと。
K 今はね、先の流れでいうと両方出てくる時期なんですよ。なぜ両方出てくるかというと、民主主義という概念自体が、そもそも最終的には多数で決めるという概念でしょ。今まではとにかく政府に丸投げだった。それではいけないということになって、だから参加しないといけない。参加するときに結局どうやって決めていくかというと、最終的には多数決。その時に、本来その多数決は社会全体の立場に立ってというのを踏まえながら意見を作っていかなくてはいけないはずなんだけれども、そうはならない。民主主義はそもそもそういうもんだということ自体、教育されていない。多数の意味ということ自体、あまり伝えられていない。
さらに言うならば、権利が何かということ自体理解していない。権利というのは直感的に使えるんだけれどもちゃんと考えないとわからない。直感的に使えるというのは、モノを買ったら買ったものがおかしかった。これはちゃんと新しいものをもらえる権利があるというような契約で得られる権利については直感的にわかる。だが、権利が社会のルールにより生まれているという部分については、直感ではわからない。なぜそれを要求できるのかというと、人間は平等でなくてはいけない、公正でなくてはいけないという原則に基づいて、そういうルールを社会が確認してきたわけですね。権利はすごく個別的であると同時に、社会の確認に基づいて生まれる。
日本、インド、タイ、フィリピンなどいくつかの国で、教員が人権教育をどう進めるかというアンケート調査があって、権利を教えることによって権利を濫用するようになってきたという答えは日本が一番高かったんですね。2割くらい。なぜこうなるかというと、自分の権利と共通の権利の区別をちゃんと教えていないから。権利というのは本来共通なんです。ある一定の基準に基づき、皆にある。本来、個々の要求が本当に権利なのかということが問われないといけないのであって、権利だったら認めなきゃいけない。権利はそういう意味で直感だけでなく社会全体がどういうルールで動くのか、どういう原則で作られているのかということを理解していかないと理解できない。
法律については法の重視、大切さを教える。民主主義についてはいろんな制度があるということは教えるけれども、では民主主義と法律はどうつながっているか、人権と民主主義はどういう関係にあるのかというややこしい話は全然入ってこないわけですね。
権利は社会全体の合意である
S 加害者の人権は横において、被害者の人権を第一に考えろというような風潮があることについて、ご意見をお伺いできますか。
K 皆、なんとなく不安になっているんですよね。社会が今までと同じじゃなくなっているみたいな。そしてスケープゴートを見つけようとしているんですね。理論としては非常に単純なのに。被害者の権利と加害者の権利をバーターするみたいな話をしているじゃないですか。被害者の権利は被害者の権利として重要でしょ。けど、それと加害者の基本的な権利はまた別の話。だが、その二つを交換するような話になっている。
権利と義務という言葉が、義務を果たさないと権利を得られないという言われ方がされていますよね。権利は何かを引き換えにして得られるというような感覚が非常に強いので、何でもかんでもバーターしようとする。
S お金出してなんかモノを買うというような感覚でしょうか。
K そうなんですよ。日常的に言われる権利とは、まさに民法の世界じゃないですか。お金を払う、あるいは何かサービスを提供する。その代わり何かを得る。それが権利と義務だと思ってるんですよ。ところが権利とはそれだけじゃない。国との関係で生まれる権利もあるし、人間の尊厳のためにそもそも必要な権利もあるんだけれども、その辺の区別をちゃんと考えなくて、なんとなくの議論をしているんですね。
S 自分の権利だけを主張して、皆の権利を考えないというのもあります。
K 権利がどうやって生まれるのかということと、社会の中で権利というのはどういう役割を果たしているのかということを、ちゃんと考える機会が与えられてないというところからきていると思うんですね。
例えば人権というのは何かを払わなければ得られないというものではないのに、学生でそういう理解をしている人はほとんどいないですね。ホームレスの人権の話になったときに、「けど、あの人たち税金も払ってないし、義務も果たしてない。だから権利はない」というような反応が非常に簡単に出てくる。
そういう権利というのは社会全体のルール、社会全体の合意であり、それを実現するための具体的な手段が一人一人に得られる個別の要求であると。一般的な基準としての権利と、その権利があるために生まれる個別の請求権とを区別していない。
民法でも契約の世界でも同じで、金を払ったらそれに見合うモノをもらう権利が生まれるという一般的なルールがあるから、個別具体的に何か要求できるわけですね。人権というのは違う形で一般的なルールを作っているという、要するに人権の尊厳を保つために無条件に与えられるものなんだと。
S その無条件というのが意識にありません。
K ないですね。権利というのは対価があるものと。そもそも、権利の仕組みがなぜ社会の実態を変えるのに役に立つのかというと、一人一人が実際に権利の主体になった時に、制度とか社会全体の動きとかをとりあえず考えずに、自分のこの権利が奪われているということで要求できるということを保障している。そこに権利という概念が実際に世の中で使えるようになっているというところがあるわけですね。だからこそ、それは皆が合意して生まれるということを、丁寧に再確認していかなくてはいけないんだけれども、その部分はやらない。
差別されている人の痛みを考えましょうとは言うけれども、では差別されている人というのは具体的にどういう権利を奪われているのかという議論を誰もしない。
S 人権は何なのかというところですよね。わかりやすく説明する方法というのもあるんでしょうが、なかなか伝わりません。
K 説明は誰もしてないでしょ。そういうことを社会全体でやろうとするなら、ちゃんと教育の中でやっていかないと。それはちゃんと教育基本法、憲法の中に書いてあるわけですよ。社会の形成者として人びとを育てるんだと。形成者として育てるためには、社会はどうなっているんだということをちゃんと見せないといけないじゃないですか。けど、その部分は非常に形式的におざなりにしている。
丁寧に、社会はどうなってんの、と言っていけば、それだけで随分変わりますよ。選挙に行かなかったら、少人数の人たちに便宜を図る社会に確実になっていきますよ、と。
(1)ご本人のウェブサイト
(2)人権基盤アプローチとは、貧困への対処や、マイノリティ、女性、子どもなどの弱い立場に置かれた人びとの保護などにおいて、問題の根本は貧困層や被害を受けている人びとの人権が実現されていないからである、こうした人びとの人権を実現するにはどうしたらよいのかという視点で分析、実施、評価を行なうというもの。
(3)ナルマダ・ダム インド西部のナルマダ川に大中小3000以上のダムと導水路を建設する総合開発計画。森林、農地が失われるだけではなく、総合計画で影響を受ける住民は約100万人、総合計画のなかでも規模の大きいサルダル・サロバル・プロジェクト(ナルマダ・ダム)に限れば10万人と言われていた。しかし、建設予定地の住民だけでなく、移転先予定地から立ち退かされる住民なども含めると20万人以上が影響を受けたと言われている。環境や移住に対するインド政府と関係当局の対応が不十分だとして現地で激しい抗議運動があり、それが世界に広がった。1993年、インド政府は貸付を辞退したが、自国の予算で建設を続行しており、2025年には完成する予定。
(4)グローバル・ウィットネス
(5)セーブ・ザ・チルドレン
(6)"Making it add up"。
(7)楠瀬喜多。明治11年(1878年)、区会議員の選挙で「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないなら納税しない」と県に抗議した。これが女性の参政権へ道を開く最初となった。
